日枝神社
歴史

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用創建の年代は不詳[1]。古くは越中国新川郡針原に広い境内地をもって鎮座していたのを、南北朝の1335年(建武2年、桃井直常が北条時兼を追討した際、敗走する時兼が防戦のため社に火を放ったので[1]、戦乱を避けて神体は旧上新川郡大山町隠土、旧上新川郡中野村と各地に遷座した[1]。
1367年(正平22年)以降、旧婦負郡藤居村(現在の富山城跡)に遷した。天正年間、佐々成政が富山に入城の際、城内にあった藤居山富山(ふせん)寺鎮守山王権現を現在地に遷し、富山の産土神とした。成政の越中退去後、1587年(天正15年)、前田利長が富山城に入城して以降は、富山前田家の産土社に定められ、新たに社地・社殿が寄進された。
1873年(明治6年)に郷社に列した。1875年(明治8年)、天照大御神を祀る北神明社、豊受大御神を祀る中神明社を合祀した。1899年(明治32年)、境内地に新県庁を建設するのにあわせ、かつて鎮座していた縁で富山城跡内に遷座し、同年8月2日、県社に昇格した。しかし同年8月12日に市街全域を焼く大火があり、社殿を焼失した。1901年(明治34年)、現在地に本殿・拝殿を再建した。
1945年(昭和20年)八月一日富山大空襲により全社殿その他建物の全てを消失したが、御神体は、本殿土壇の特設の防空壕に直前にお移しして被災を免れた。戦後は被災にあった本殿・拝殿・社務所等が氏子崇敬者の御浄財により次々とご復興し、神域は見違えるように旧に勝る威容を誇るに至った。
1968年(昭和43年)、神社本庁の別表神社に加列された。
2006年(平成18年)には、本殿の修復、幣殿の増築、廻廊の新築工事が行われた。
鳥居と参道

街中にあることを忘れてしまう凛とした厳かな雰囲気が漂う神の道。
手水舎

鳥居をくぐり参道を進むと手水舎がある。

ここで手と口を清めよう。
社殿

奥に進むと鮮やかな朱色の拝殿が現れる。大山咋神(おおやまくいのかみ)、大己貴神(おおなむちのかみ)、天照大御神、豊受大御神の四柱の神様がおまつりされている。
境内

それぞれの願いが集まっている。

おみくじは神様からのメッセージ。
最後に

街の中心地にあるとは思えない静けさに包まれた神社。この落ち着いた雰囲気が心身をリフレッシュさせるパワーなのかもしれない。
日枝神社 〒930-0064 富山県富山市山王町4−12 ※地図
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