雄山神社峰本社
ご由緒
雄山神社HPより引用今から約一三〇〇年前、文武天皇の大宝元年(西暦七〇一年)第十二代景行天皇の後裔、越中の国司佐伯宿禰有若卿の嫡男有頼公が、白鷹と黒熊に導かれ立山の玉殿岩窟において「我、濁世の衆生を救はんがため此の山に現はる。或は鷹となり、或は熊となり、汝をここに導きしは、この霊山を開かせんがためなり。」という立山両権現の霊示を受け、文武天皇の勅命により開山されたのが霊峰立山である。その立山を神山と仰ぎ、山麓芦峅寺に立山雄山神(立山大宮)、剣岳の刀尾神(立山若宮)の両権現を奉斎する根本中宮をはじめ壮大なる神社仏閣が建立され、岩峅寺にも社殿が建てられて、年中の諸祭礼を怠りなく奉仕したのである。有頼公自らは出家して慈興と号し、立山座主として芦峅寺に居を定め、立山信仰の弘宣に生涯を捧げられたのである。以来神仏習合の一大霊場として皇室をはじめ武将名門の崇敬を受け、元明天皇・後醍醐天皇の勅願所となり、また清和天皇の貞観五年・宇多天皇の寛平元年に叙位せられた。平安期の後白河法皇御撰の『梁塵秘抄』には「験仏の尊きは先づ東の立山」と全国著名の霊場の冒頭に記され、また鎌倉時代の安居院編纂の『神道集』に「越中国一宮」、洞院公賢が著した『拾芥抄』に「雄山神社は新川郡葦峅寺にあり」と銘記されており、広く信仰を集めていたことが窺われる。鎌倉幕府が文治元年に諸堂を造営、室町幕府足利歴代将軍、越中守護代神保長誠公、佐々成政公等々、殊のほか深く崇敬し保護造営されてきた霊場も、天正十三年八月、富山城主佐々成政征討のため越中に軍を進めた豊臣秀吉により芦峅寺が悉く焼き払われ、以前の諸堂を殆ど失うこととなった。このことについては「東は立山ウバダウつるぎの山の麓迄、令放火候」と、秀吉が藤三蔵ら五名の近畿大名に送った文書が高野山に残され、『続群書類従』にも「至リ越後界ニ、立山、剣、祖母堂、廻シ人数ヲ」と載せられている。祖母堂(うばどう)とは芦峅寺のことである。前田利家公が加賀藩主となり復興造営に保護を加え、再び盛賑を極めたものの、明治維新の廃仏毀釈・神仏判然令により一大改新を加えられたため、布橋灌頂において重要な役割を果たした中宮寺ウバ堂は廃止され、天下三霊橋と誇った布橋も落ち、塔中諸坊も四散し芦峅寺は廃墟と化してしまった。ただ、根本中宮の境内とその講堂が雄山神社中宮祈願殿として残り、明治6年に県社、昭和15年に国幣小社に列せられた。
行ってみた
入口
参拝には登拝料500円が必要。鳥居をくぐって支払いを終えてから入口を抜ける。
狭い石段を上ると雄山神社峰本社に到着だ。
雄山頂上からの景色
雄山頂上は3003m。ガスが吹き上がってきた。
辿った道を振り返ると社務所がある。お守り・記念バッジ・Tシャツなども販売されている。
富山県最高峰と黒部ダム
富山県の最高峰が大汝山(標高3015m)。
見下ろすと黒部ダムの端が見える
山頂にある本殿
畳6帖くらいの狭いスペースにある本殿。落下防止の手すりもない開放的な場所である。もちろん落ちたら大けがでは済まされない。
太鼓や御神酒がある。
可愛らしい鈴。清々しい音色が敬虔な気持ちにする。
そして神主さんのお祓いを受けお神酒をいただく。3003mで詠われる祝詞が響き渡った。
御朱印
社務所に戻ってザックに入れてきた御朱印帖を巫女さんに渡し書いていただく。
おしまいに
標高は高いが登山初心者でもチャレンジできる。苦労して山を登り、雄大な景色を見ながらの参拝は感動すること間違いなし。日程に余裕が持てれば前泊がおすすめで、ご来光などの楽しみがさらに増える。初心者向けとはいえ、北アルプスの本格登山になるので気持ちは引き締めて楽しもう。このコースでも骨折などの重傷を負い、ヘリで運ばれる事故が毎年発生しているからね。下からガスが吹き上がってきて天気が崩れそうと判断して縦走は断念。登頂した感動と興奮が冷めないまま、、、ゆっくり下山した。
※このあと「記録的短時間大雨情報」で猛烈な雨が降ったようだ。
雄山山頂、、、峰本社社務所に到着...
大汝山に到着富山の最高峰である...
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