富山縣護国神社
富山県護国神社
ご由緒
富山県護国神社HPより引用この磯部の地は、慶長三年、佐々成政が別園を築き、休憩所を建てたと云はれ、遥か東南に御鎮座されてゐた樫葉神明社にたびたび参拝されたと云ふ由緒ある所ですが、ここに明治四十五年九月二十五日、富山縣會に於て、富山縣指令社第七三六号に依つて「富山縣招魂社」として創立認可され、時の縣知事濱田恒之助が建設委員長となり、翌大正二年八月、神明造の本殿、拜殿、神饌所手水舎等の竣工をみて御鎮座されたものです。
その後内務省、護國神社令により昭和十四年四月一日「富山縣護國神社」と改稱し、間もなく奉賛會が結成され、縣民あげて奉賛されてきました。
しかし、昭和二十年八月一日、米軍の空襲により富山市を中心に火の海と化し當神社も手水舎を残して全て焼失してしまつたものです。その後、昭和二十二年四月十三日、富山縣鎮靈神社と改稱、同時に奉賛會が結成され、同年十月二十一日仮社殿竣工、昭和二十六年十月二十四日、富山縣護國神社と復稱、翌二十七年十月二十六日富山縣護國神社奉賛會を結成するに至り、さらに焼失した御社殿を復興するため、昭和二十八年、富山縣護國神社建設委員會が結成され、昭和二十九年十月二十日、現在の社殿の竣工をみたのです。
その後、昭和五十年八月一日、終戰三十周年記念事業として、戰災殉難者、公務殉職者、縣功労者の御靈を祀る富山縣鎭靈神社を御造営し、さらに、昭和五十七年十月御創建七十周年記念事業として、新社務所、屋外便所、南玉垣、南鳥居等の竣工をみました。又、平成四年十月御創建八十周年記念事業として大拜殿、北・西側の玉垣造成をなし、平成七年八月、大東亜戰争終戰五十周年記念として臨時奉幣大祭を斎行。
併せて遺芳館を建設し、更に、平成十四年十月四日、御創建九十周年記念事業として本殿大修復を終へ正遷座祭を斎行し現在に及んでゐます。
鳥居
富山の市街地から少し歩き、神通川の近くに鎮座する。立派な鳥居が目の前に。
手水舎
こちらで清めますよ。
参道
石畳の参道を進み拝殿へ向かいます。
拝殿
かなり大きな拝殿。
拝殿には立派なしめ縄がある。
心地いい風が吹く。
社務所
拝殿の右側に社務所があり、御朱印をいただく。
社務所から拝殿を見ながら御朱印を待つ。
御朱印
立派な御朱印にも関わらず無料でした。
夢にだに 忘れぬ母の涙をば いだきて三途の橋を渡らむ
特攻隊として出撃し、米艦船に散華された高田豊志命が母上さまに宛てた最後の手紙。
伊佐雄志神社
ご由緒
富山県護国神社HPより引用當神社は富山市の大空襲による戰災殉難者、治安の維持と公共の災害防護その他民生安定のため殉職せられた自衛官、警察官、消防團員、消防署員、郵便局員及び地方功労者の御靈約參阡余柱をお祀り申し上げてをります。
當神社は戰災により、焼失。仮社殿のままささやかにお祭りを續けてきたのでありますが、終戰三十年を迎へるにあたりその記念事業として復興御造営を實施することになり、昭和五十年二月には富山縣鎭靈神社御造営奉賛會を結成し、縣民皆様に深い御理解と御協力を賜はり、同年八月一日に芽出たく御造営竣工いたしました。
そして、平成二十二年九月名称を「伊佐雄志神社」と改称。「いさをし」とは漢字を宛てれば「勲」「功」、つまり「公の為に、或るは家の為に、雄々しく努め励み、功績を挙げる」意味があり「伊佐雄志」はその万葉仮名での表記にほかなりません。
護國神社の御英靈とともに伊佐雄志神社の御靈等のことも忘れてはならないのであります。
拝殿
昭和20年8月1日に起こった米軍による「富山大空襲」により、戦災死された御靈と公務殉職者、神社関係者の御靈が祀られている。
最後に
過去の大きな犠牲の上に、今の平和な日々が成り立っていることを深く感じた。富山市内の死者は3000人といわれ、地方都市への空襲として日本最大の破壊率だったという。護国神社裏の神通川河川敷では富山大空襲の犠牲者の鎮魂と復興、平和の願いを込めて、昭和22年から毎年8月1日に花火大会が開催されている。日本は戦争の被害者であり、同時に加害者でもある。太平洋戦争による中国・東南アジアの犠牲者は1500~2000万人。この事実も踏まえた上で、これから絶対に戦争をしてはいけないと思った。
富山縣護國神社 〒930-0077 富山県富山市磯部町1丁目1 ※地図
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