雄山神社前立社壇
ご由緒
当社(前立社壇)は山裾に位置し、3社の中で一番平野に近く、立山の前に立つお社であることから前立社壇と呼ばれております。
雄山神社前立社壇HPより引用
社伝によれば、立山は 文武もんむ天皇の 大宝たいほう元年(701年)に 景行けいこう天皇の 後裔こうえい越中国司 佐伯宿祢有若公さえきのすくねありわかの嫡男 有頼ありより少年が 白鷹しらたかに導かれ熊を追って岩窟に至り、「我、 濁世じょくせの 衆生しゅじょうを救はんがため此の山に現はる。或は鷹となり、或は熊となり、汝をここに導きしは、この霊山を開かんがためなり。」という 雄山大神おやまおおかみの神勅を奉じて開山造営した霊山であります。古来、富士山・白山と共に日本三霊山として全国各地から信仰されてきました。
山頂の峰本社は屹立した巌上にあり、冬期間は雪深く登山することが至難であったので、山麓岩峅(前立社壇)に社壇を建て、年中の諸祭礼を怠りなく奉仕したと伝えられています。
当社は皇室の御崇敬篤く、文武天皇及び 後醍醐ごだいご天皇の 勅願所ちょくがんしょであり、 延喜式内えんぎしきないの名社でもあります。 神階しんかいは 清和せいわ天皇 貞観じょうがん5年(863年)正五位上に 叙じょせられ、 宇多うだ天皇 寛平かんひょう元年(889年)従四位下に 昇叙しょうじょせられたことが、 日本三代実録にほんさんだいじつろく及び 日本紀略にほんきりゃくに見られます。
また、越中一宮と称されたこともあり、一般国民の信仰も大変篤かったと同時に、藩主武門武将の信仰も篤く、 建久けんきゅう年間(1190~1198年)に 源頼朝みなもとのよりともが本殿を再建し、 明応めいおう元年(1492年)に室町将軍 足利義稙あしかがよしたね、 天正てんしょう11年(1583年)には 佐々成政さっさなりまさが本殿を造営・改修しております。その後は加賀藩前田家の手厚い保護を受け加賀藩の 祈願所きがんじょとなり、明治6年(1873年)には 県社けんしゃ、昭和15年(1940年)に 皇紀こうき二千六百年記念事業として県民あげての奉賛により拝殿以下の建物が整備され、 国幣小社こくへいしょうしゃに列せられたときは本社でありました。
行ってみた
岩峅寺にある『前立社壇』は、山裾に位置し、三社の中で一番平野に近く、立山の前に立つお社であることから前立社壇と呼ばれています。
鳥居と参道
踏切を渡ると常願寺川の堤防上に立つ大鳥居があります。
大きな杉が立ち並ぶ真っすぐな参道。
手水舎
ここで心身を清めましょう
表神門
本殿を挟んで東西にある神門のうち、こちらは表神門。表神門の奥には反対側の東神門がある。
拝殿
きれいな拝殿。
強いパワーを感じる^^
本殿
本殿は室町期の造営で源頼朝、足利義稙、佐々成政らの有力者によって手を掛けられてきた建物。明治39年(1906年)4月19日に国の重要文化財に指定され間口5間の本殿は北陸最大と言われる。
境内
車いすも容易に利用できるよう配慮がなされている。
その境内にある「夫婦杉」。境内のほぼ中央にあり、根を共有していますが、地上では2本の幹が聳え立っています。
夫婦杉について詳しい案内板があります。次は妻とお参りに来ようかな~。
摂社・末社
摂社 刀尾社、末社 稲荷社、末社 八幡宮
社務所
100名が収容できる大広間もある大きい社務所。
御朱印
参拝者は私だけなので、すぐに御朱印をいただけました。
最後に
連日感染が拡大する新型コロナウイルスの問題が終息して、当たり前の日常生活がみんなのもとに戻りますように。そして、今年も夏山シーズンに立山へ登山できますよう祈願いたしました。
富山県立山町芦峅寺に来ました。...
信仰の山、、、立山雄山神社峰本社に行きました...
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